- 担当コーチ
- 小林 富士
あの日、午前5時46分、下からのド~ンという突き上げで目が覚めた。
その後、激しい横揺れでシェイクされるような中、バラバラと棚から物が降りかかり、
頭を抱えて揺れが収まるのを待った。”余震が来る前に避難しないと!”
部屋から出て階段へ行くと、階段が崩れ落ちて使えない。
家族に声をかけ、部屋の雨戸を開けて見ると、夜明け前の暗がりの中、街が壊滅状態‥‥。
一瞬、”あ~終わった!” と思った。が、次の瞬間 ”どこか安全な場所へ避難しないと!” という思いが頭をよぎった。
窓から見えた光景の中、筋向いの鉄筋のお宅の非常灯が付いているのが見えた。
持ち前の大声で ” 避難させてください!” とお願いすると、” どうぞ!” という声がどこからか返ってきた。
裸足のまま、窓からベランダの手すりを乗り越え家族とともに避難。
避難の途中も、どこからか ” 助けて~!” という声が聞こえてくる。
夜が白々と明け始め、目にした光景は周りのお宅は殆ど、私の家も同様に一階が押しつぶされ、一階で就寝中だった方は家の下敷きになっているとのこと。
一方、家族の必死の呼びかけに何も返答がないのには心が痛んだ。
緊迫した雰囲気の中、避難させていただいたお宅はお医者さんで、次々とけが人が運ばれてきた。
待合室の床にもけが人が溢れ、目の前の五歳くらいの男の子は ” 残念です… ” とお医者さんが伝えても、
諦めきれないおばあちゃんが、ずっと人工呼吸をしながら名前を呼び続ける。
後日の報道で知ったことだが、私の住む森南町はあの阪神高速の高架が横倒しになった真北に位置する。
その日は殆ど何も口にすることなく、その後は非難所での生活。
毎日、全壊した家の後片付けに追われた。
二十六年前の出来事が走馬灯のように思い出される。
コロナで翻弄される世の中。
でも、家族がいて、住む家があり、毎日温かいものも食べられる。
この難局を乗り越えられる!こう思うのは私だけではないはず。
毎日、テニスが出来る喜びを噛みしめながら‥‥。